薬王堂気まぐれ通信使№798  2019-3-17
Yakuoudo Capricious Communications Satellite

私の母方の先祖に武田姓の親戚がいます。
地理的にそんなに遠くなく家に伝わる家紋は武田菱であること、親戚の庭にある築山から鎧の残片が出土したことがあると聞いたことがあります。
この度、ヒコビア植物観察会が行われた武田山(標高411m)との関係があるのでは?と期待を持ちながら登ってみました。
鎌倉時代初期、国盗りの戦が各所で行われていた最中、手柄を立てた恩賞にと甲斐の国の武田一族より安芸の国の守護役としてこの地に武田信光が派遣されたことからの始まりとされています。
当時の広島市周辺は平地奥まで海が迫り武田山の下あたりまでは海岸だったと考えられます。
その後、太田川上流で鉄の生産(たたら製鉄)が始まり大量の土砂が河口へと流れ込み三角州形成が進行しました。
海運交通が主流だったころ、武田山からの監視は重要な役割だったことでしょう!

朝、9時過ぎの可部線に乗車し登山口のある下祇園駅に向かいました。
可部線のなんと遅いことか・・各駅で車両待ちをして進むローカル線は東京とは比べようがありませんでした。
下祇園駅で集合し担当者から登山に関する注意や解説を聞いたのち登山口までなだらから斜面を歩きました。


武田山


急な山道に差し掛かります。
掘り込まれただろうと思われる山道を通過し、馬もここまでしか来れないと思われる「馬返し」に到着します。
日当たりの悪い斜面でタブノキシラカシ・アラカシ・ヤブツバキなどが見れます。


ヤブツバキ


武田山に築かれたのは銀山城という山城、尾根に出ると見晴らしのいい岩場がありました。
ヒサカキの花の香りが漂います。
侍が常駐した千畳敷周辺にはササの仲間であるヤダケがたくさん植わっていました。


ヒサカキの花


しばらく登ると頂上に出ます。
頂上の岩場から左に眼を向けると、白木山~呉娑々宇山、正面に戸坂地区~牛田山、そしてデルタ地帯に広がる広島市~島しょ部と続きます。


武田山山頂から広島市を望む


頂上付近には風雨にさらされた大きな岩の塊が何個も転がっていました。
岩にはかつて建造物があったであろう形跡残っていました
ヒトツバシキミが目に付きます。


山頂の岩の間より


尾根伝いに観音堂跡、見張り台(上高間)、弓場跡を経由して下山します。
下山道はつづら下りながら意外と歩きやすいものでした。


武田氏・銀山城下のなだらかな丘陵の向こうは海であったと思われます。


昔はこの道のほうを頻繁に使用したのかもしれません。
山を抜けると丘陵が広がりクサノオウゲンゲホトケノザキジムシロチャルメルソウが花を咲かせています。
途中、武田氏の菩提寺であったというお寺の前を通りました。


ゲンゲの花



1520年ころ、武田氏は山陰の勢力であった尼子一族と手を組んだため勢力を伸ばし始めた毛利一族と敵対することになります。
1541年、毛利元就は銀山城攻略の手段として太田川に大量の火をつけた草鞋(わらじ)を流して注目させ背後から圧力をかけたとのこと、今でもその付近に「千足」という地名が残っています。(ウイッキペディアより・・)
その後、厳島合戦(1555年)の前年に毛利元就の攻勢にあい支配下となったとのこと、、私の先祖はその時に散らばった人たちの末裔かもしれません。
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